イケメン・美女は強すぎる!
誰もが中学生くらいになると通過する関門がある。
それは、自分がイケメン・美女なのか、そうでないのかという周囲の他人による判定である。
この判定の結論により、今後自分が自然に得られるチャンスや自分の性格にまで影響を及ぼすことになる。
イケメン・美女はそこにいるだけで価値があり、何もしなくても他人に愛される。
特に思春期は大半の人がオシャレをすることに膨大な時間と金銭を割くくらい、美に対する関心が高くなる時期である。
あの化粧品が良いとか、あのアパレルブランドのアイテムが良いとか、雑誌やらSNSやらから収集しまくる。
どうにかイケている人になりたい、どうにかイケている集団に属したい。そういう気持ちに駆られるのが中高生あたりの年頃だ。
では、その先の人生はどうか?
実はこの構図は大人になっても変わらない。
中高生ほど容姿の重要性のウェイトは大きくはないものの、大人になってもやっぱりイケメンと美女に人が群がる。
容姿の基礎的な要素なんて自分の過去の努力によって得られるようなものではなく、ただそう生まれたというだけなので、管理可能性は皆無だ。
それなのに、その要素によって人生が大きく変わってしまう。
イケメン・美女はイケてないアイテムで揃えたところでサマになる。反対にブサイクだとどんな高級品を身に付けたところで想像していた効果が得られない。
本当に努力が反映されない世界であり、なんと理不尽であるのか!としか言いようがない。
イケメン・美女が強すぎるというのは、認めざるを得ない真実であり、イケメン・美女に生まれた人は本当にラッキーである。
そして、きっとこの文章をここまで読んでいる人は、イケメン・美女側でないからこそ読み進めているはずだ。
イケメン・美女でなくても救われる道は確かに存在するので、もしそのような悩みを抱えているのであれば、是非最後まで読んでみてほしい。
普通の人・ブサイクは救われないのか?
特に美意識が高い中高生のうちは普通の人・ブサイクは学生時代に良い思い出を作りにくいと言えよう。
普通の人は目立たないまま日々が過ぎ去ってゆくだけかもしれない。
クラスの中心人物として認められないとか、好きな人ができても受け入れてもらえないとか。
これを甘酸っぱい思い出と解釈する人もいるようだが、苦い思い出という方が適切なのではないだろうか。
ブサイクであると、容姿を理由にいじめられたりして本当につらい思いをすることもあるだろう。
必ずしもそうではないが、そういった傾向があることは時期を迎えれば体感的に理解できるだろう。
このように程度の差はあれど自分が他人に認められない経験を何度も重ねるうちに、性格まで暗くなってしまう人も少なくない。
容姿というステータスは圧倒的なパワーを持つが故に、これに振り回されてしまうことは仕方がないことだ。
振り回されすぎて全てに絶望してしまうこともあるだろう。
しかし、普通の人・ブサイクは救われないかといえば、決してそうではない。
普通の人・ブサイクでも戦える世界がある。
それは、能力の世界だ。
容姿の次に強力な要素として、能力の要素がある。
つまり、勉強ができるとか、スポーツができるとか、作品を生み出せるとか、そういう面で他人に認められるという方法があるのだ。
当たり前じゃんと思うかもしれないが、ほとんどの人はこれを重要視せず、何者でもない大人になって行く。
苦い経験があっても、それをそのまま、ずっと受け入れ続けてしまうのだ。
その結果、本当にずっと何も素敵なイベントが起こらないままに人生を終えることになる。
待っていても白馬の王子様は来ない。童話でも白馬の王子は美女の元に来る。
望みの無い奇跡を待つのではなく、自ら行動するべきだ。
ただし、能力が高まったからといってイケメン・美女のような派手な目立ち方はできない。
そのため、どんなに成功しても自分に悔しい思いをさせてきたイケメン・美女に「勝った」というような気持ちにはなれないかもしれない。
しかし、勝ちたい思いは恨み・妬み・嫉みを晴らしたいから持つだけであり、自分の能力を高めて自信を持って自由に生きることができればそんなことは気にならなくなる。
能力という要素は大人になるにつれて重要性がどんどん増してゆくので、この要素を育てておくということが非常に大切になる。
人生を有利に過ごすための要素の構成
筆者は人生を有利に過ごすための要素について、以下の構成となっていると考える。
容姿と能力については、最終的に能力のほうが重要なのではないかという指摘もあると思うが、能力は高度に積み上げた結果有効化する一方で、容姿が良い場合は自然に与えられるものでありながらも物心ついた頃からずっと人生を通して有利な扱いを受けるので、容姿という要素の方が有利であると言えよう。
願望に支配されてはいけない
容姿や能力に優れている人に対して劣後している人は、自分にはあってその人にはないものを探してしまいがちである。自分の方がやさしいとか人間的に深いとか、測りにくい要素を用意して、その点では自分の方が優れている思い込みをしてしまいやすい。
当然だが、容姿や能力が優れているからその分何かがないはずだという推察は、ただの願望に過ぎない。自分が傷つきたくないから勝っている部分があるはずだと思い込みたいだけである。
そもそも、容姿と能力以外の要素については明確ではないし、上記の観点では有用性も低い。
例えば、自分は容姿も悪いし、能力も低いけれど「やさしさ」があると思っているとしよう。
体育祭を成功させるために気の強いクラスのリーダーが体育が苦手な生徒も激詰めして困っていて、自分もどちらかというと体育が苦手で同じ側である。リーダーの行動は正しくないと思い、陰で詰められた人に声をかけてあげた、というようなエピソードがあるとする。
これは、弱者は「やさしさ」と捉えるかもしれないが、一般的に見れば「弱さ」だと捉えられる。
要は自分の意見を主張できない人が陰で傷をなめ合っているのが実態であるのに、それをやさしさだと独善的に解釈してしまっている。
また、「やさしさ」については普遍的なものではなく、やさしさを提供する側も相対する人次第で使い分けるし、相手の感じ方も異なる。
このように、容姿や能力以外の要素についてはあいまいであり、有用性も低い。こんな不確かなものに自分のアイデンティティを委ねても仕方がない。
何もないならば、素直に能力を伸ばすしかないのだ。
自分の能力を伸ばす
では、何の能力をどのように伸ばしたら良いか。
筆者の考える答えは、職業にできる領域で少なくとも日本で数%のトップ集団に入り込めることを狙える能力を伸ばすということだ。
つまり、勉強であれば東大を目指すとか、スポーツであればプロ選手を目指すとか、作品であれば全国に知られるとか、そういうレベルを目指すべきなのである。
つまり、下から見ていくつ上を目指せるかではなく、1番上を目標に設定し、最悪いくつ下に落とすかという発想が必要になる。
なぜそうするべきかというと、大人になると仕事をしてお金を得なくては生活ができなくなってしまうので、大人の世界では能力という要素の重要性が増すことになる。
そして、その能力が高いものとして認められるのは、その世界の上位から数えてほんのわずか数%だけなのである。
その領域に達しなければ、それに携わっている人にはなれたとしても、それ以上の何者にもなれない。
何者にもなれなければ、今の人生の延長線上に未来ができてしまう。
報われたいのであれば、トップ集団を目指すべきである。
やりたいことも金も才能もなかったらどうしたら良いか?
やりたいことが決まっているのであれば、是非それを死に物狂いで追いかけてみてほしい。
しかし、やりたいことなんて中高生で決まっている人は少ない。大学卒業を控えてもなおやりたいことが見つからずに適当に就職活動する人も多い。
やりたいことが見つからないのは、決して珍しいことではないのだ。
また、能力を伸ばすために有利な要素としては金と才能がある。
金があれば経験を買える。
自分でゼロから調べて積み上げるよりも、先人に金を払って教えてもらった方が早いのはいうまでもない。
また、どんなに努力をしてもなかなか芽が出ない人よりも、才能があってなんとなく上手く行ってしまった方がモチベーションも上がる。
これらは容姿と同じように、生まれ持ったのであればラッキーという要素である。
もちろん、そのどちらかすらも持たない人も多い。あまりにも何もなくて絶望したくもなる。
そういう人にオススメなのは、大学受験である。
勉強は特別な才能がなくても圧倒的な勉強時間でカバーすることができる。
予備校に通う金がなくても学校に教材はあるし、中古の参考書でも対応することができる。
大学の学費がなくても奨学金を借りて社会人になった後に少しずつ返済すれば大学に通うことができる。
大学では色々な出会いがあるので、やりたいことを見つけることができるかもしれない。
今更学歴なんて意味がないという人も増えてきたが、なぜこんなにも長い期間をかけて義務教育と謳って勉強をさせられるのかを考えれば、社会が勉強が大切であると考えているということは当然に理解できるはずだ。
なお、勉強はただの行動であり目的ではない。勉強を積み上げることにより、社会人に必要な能力を得るという目的があるのだ。
クラスの中での順位を気にするとか、留年しないために仕方なくこなすとか、本来の目的に整合しない勉強をしていてはならない。
学歴が意味がないというのは、○○大学を出たということで良い扱いを受けられる時代は終わった、という意味くらいに理解しておいた方が良い。そもそも、きっと昔からそうであったのだろうと推察されるが。
自分には何もないという人は、まずは正攻法として勉強を頑張ってみてほしい。
自分にはできる自信がない
色々な人に否定され続けていると、自分は何をやってもダメな気がしてしまう。
実際、現状は下位集団にいるのにトップ集団に入るなんてできるわけがない。
そのように思う人の方が多いだろう。
しかし、そう判断するには早い。
少なくとも、あなたはトップ集団に入るレベルの人と同じ時間もしくはそれ以上の時間それに向き合っただろうか?
もし、それすらしていないで出来ないと思っているのであれば、それはできないのではなくて、やっていないだけなのである。
やっていないのに出来ないというのはただ怠惰なだけであり、論外なのだ。
まずは今の自分がどうあれ、必ずできると信じてやってみよう。
普通の人・ブサイクは成功しやすい
能力の開発には非常に根気強い努力が必要となる。
ろくな努力をしたことがない人は、毎日チラチラとそれに対峙するだけで相当努力したような気持ちになってしまう。
しかし、一般にいう努力をするということは、ろくな努力をしたことがない人には想像を絶するほどのボリュームをこなす必要がある。
勉強にせよ何にせよ、例えば1日10時間以上集中してそれに投じるような水準が努力していると言えるレベル感である。
成果を発揮している時は気持ち良いが、成果のために努力を積み上げる毎日は本当に退屈だ。
つまり、努力は相当なモチベーションがないと出来ない。
その点、普通の人・ブサイクは、能力を高めるためのモチベーションが生まれやすいので好都合だ。
なぜなら、他人からの承認に飢えているからである。
救いのない現状を悲観して腐ることなく、大きな目標を持ち、どうして自分は認められないのかと思う怒り、悲しみ、恨み、妬み、嫉みを全てそこに投下すれば良い。
その強い思いがあることにより、能力を高めるモチベーションがない人たちに比べて成功しやすいだろう。
コンプレックスはそのように活用することが最も効率的である。
高い能力が得られるとどうなるか?
地道に積み上げてきた努力が身を結んだときどうなるか。
まず、上位数%層に入り込めれば必要性が高い人材となるため、生活するために必要な金銭面においてに困る可能性は大きく減らすことができるだろう。それだけでも大きい。
また、成功体験から自分の可能性を信じられるようになっていることだろう。
さらに、磨き上げた脳の構造により、新しいことにチャレンジする際にも適当に生きてきた人に比べて圧倒的に的確な判断ができるようになっている。
そして、その高い能力により、イケメン・美女のような派手な認められ方はしないものの、様々な方面から認められることになる。
これらにより圧倒的な自信が持てるようになっているはずだ。
この自信があれば、周囲から罵詈雑言を浴びせられたり、自分をどうしても認めない人が現れたりしても深刻なダメージを受けなくなる。
そのように接してくるのは、自分のことが羨ましいのかな?とさえ自然に思えるようになる。
能力さえあれば、それくらい自由に生きることができるようになるのだ。
一方で前述のように、それでもなおイケメン・美女の破壊的なパワーには圧倒され続けることになる。
やたら人に愛されるというのはもちろんだが、仕事をする上で特段能力が高くなくても人を集めたり商品やサービスを買ってもらうという面においては破壊的なパワーを持っている。
それどころか、イケメン・美女な上に能力も非常に高い人に遭遇することもしばしばあって、何も勝てないじゃん!という焦りを感じることもある。
しかし、妬み・嫉みに苛まれることは相当少なくなるはずだ。
なぜならば、自分も圧倒的な自信があるから。
イケメン・美女の圧倒的なパワーに翻弄されてしまった時は、ちょっと切ない思いをしながら、やっぱりイケメン・美女は強いんだなあとしみじみと実感することになるだろう。
なお、自分に高い能力があればイケメン・美女と対等に渡り合える場面もある。
つまり、それは何を意味するかというと、自分の容姿は棚上げで、イケメン・美女に相手にしてもらえるチャンスが増えるということである。
もちろん極端なイケメン・美女はそれだけ人気が高いので自分を選んでもらうことは難しいし、モテない人の恋愛においては別の能力が必要になる。
男性のみを対象にした記事ではあるが、以下にモテない人のための恋愛ノウハウについて解説したnoteのリンクを添付したので、よかったら参考にしてほしい(有料)。
最後に広告っぽくなってしまったが、イケメン・美女に生まれなかったとしても自分の人生を自由に謳歌することは可能であるので、是非前向きに頑張ってみてほしい。
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