自分が必ず死ぬという事実とどう向き合うか

暗いテーマのように思えるかもしれないが、生きる上で輝くためには何よりもまずこのテーマを考えることが大切だと俺は思っている。

真剣に向き合ってみてほしい。

目次

日常的な死

日々、生活していて「死」は常に存在しているよな。

日本のどこかの誰かは今この瞬間にもどんどん死んでいるし、俺が今食ったファミチキの材料となった鶏も最近死んだはずだ。

このように、死は生ほどにありふれた存在である。

特に思い入れのない対象の死は、その事実を聞いたところで大衆は気にも留めないし、精神のレベルの高い人でさえ、驚いたり哀れみを抱いたりはするものの、それ以上は特に思うことはないであろう。

一方で、自分にとって本当に大切な人の死はとてつもなく自分の精神にインパクトを与えるものだ。

大切な命の死

例えば大切にしているペットの死。

俺も前に飼っていた犬が死んだ時は震えたな。

ふっくらした小型犬だったが、晩年は痩せ細って歩くのも困難だった。

亡くなった知らせを聞いて、実家に帰って冷たくなった亡骸を抱きしめた時には、「悲しい」なんて感情が発生しているかどうかさえ認識できない程に意識は遠ざかり、ただ延々と涙が流れたものだ。

思い入れのない対象の死と、大切な命の死にどうしてここまで差があるものか。

何度経験しても死別だけは慣れない。

ペットと人間に優劣をつけるわけではないが、やはり身内が死ぬということのダメージはこんなレベルではない。

俺の中ではじいちゃんの死と親友の死でとてつもないダメージを負った。

じいちゃんの死

じいちゃんはC型肝炎で、時々入院はしていたけれど、いつもしばらくすると元気になって退院していた。

今回もいずれ退院するだろう、中学生だった俺はそれくらいの軽い気持ちで病院に見舞いに行った。

なぜかその夜は、じいちゃんの膝の上で寝っ転がってくれと言われて、不思議な顔をしながら転がった覚えがある。

次の日に病室に行った時には状況は一変していた。

扉を開けると異様な生臭さが充満していた。

じいちゃんは吐血を繰り返し、病室は血だらけで、その臭いだった。

もう既にじいちゃんの意識はなく、輸血を続けながら時折口から血を吹き出している。

じいちゃんの昨日とのギャップと、絵のグロさに衝撃を受けて、ただ涙を流しながら手を握り続ける事しかできなかった。

それは壮絶な最期だった。

ショックが大き過ぎて記憶もほとんどないけれど、20年くらい経った今でも立ち直っていない。

親友の死

親友の死も衝撃的だった。

大学の語学のクラスでたまたま知り合って、とんでもなく意気投合して、当時は週7で遊んでいた。

彼女よりずっと一緒にいた。

卒業してからも毎週のように遊んでいたし、死ぬ前の日も一緒だった。

お互い新卒で会社が合わなくて、辞めて会計士でも目指そうか、みたいな話をしていた頃だった。

水道橋で肉食って、ゲーセンで遊んで、来週もまた遊ぼうぜって言って帰った。

次の日、親友の母から突然電話が入った。

「◯◯君ね、今朝ね、亡くなったの。今まで有難うね。」

意味がわからなかった。

いや、死ぬ訳ないだろ。

なんの話だよ。

そのまま会社を飛び出して、安置所に向かう。

警察署に着くと、親友の姉が憔悴して動けなくなっていて、肩を担がれてなんとか歩いている。

こちらです、と横たわる遺体の側に案内される。

顔から白い布を捲ると、息が止まった。

お前・・・

もう何も思わなかった。

ただ泣き崩れた。

まさかお前の結婚式のスピーチじゃなくて、お前の弔辞を読むとはな。

ふざけんなよ。

そこから俺は、暫く呆然と生きていた。

いつも一緒にいた分、それからの毎日は、いつもアイツがいない事実を受け止めなくてはいけない毎日になった。

今もまだ彼のような親友には出会っていないし、もう出会えないだろうし、もう出会わなくていい。

俺にはアイツしかいないし、アイツには俺しかいないからな。

とにかく大切だったし、今でも大切だ。

大切な人を失うことは、信じられないほどにツライものだ。

もう二度と会えないんだなと思うと、今でも涙が出る。

死とはなんなのか

残念ながら、全ての人間の中で「生」も「死」も一体なんなのか何も理解できた者は今のところいないようだ。

気づいたら突然意識を持っていて、自分というものを認識して、その枠組みの中で何十年も生きてゆくことになる。

そんな中で、突然「死」を迎える人が周りに現れる。

もう何をしても動かないし、放っておけば腐る。

どこを探してももう出てこないし、どうなってしまったのかもわからない。

大昔からこの程度のことしかわからないし、今でもわからない。

俺らがこんなわけわかんない世界で生きていかないといけないって、普通に考えてヤバくないか?

こんな何年も、何十年も積み上げた関係が一瞬でなくなって、その後ずっとないのに、何でみんな日々それをヤベえと思わないのか、俺には不思議でならない。

死んだ後を考えるとヤバい

大切な人の死も重大なことなんだけど、死は他人事ではなく、いずれ「必ず」「自分にも訪れる」ものだ。

必ずだ。

生きてて1年って長いなって思うよな。

ましてや10年、20年ってめちゃくちゃ長いじゃん。

でもさ、俺らが死んだ後って10年とか20年とかじゃないよな。

何千年、何万年、そんなもんじゃない。

何兆年とかでも許してもらえなくて、そんなの余裕で超えてカウントしきれないレベルで続くわけだ。

もし人生が1回きりで、どんだけ経ったところで「死」のステータスが変わらないとなると、俺らは無限の時間の中に放出されることになるんだよな。

死んだ後だから認識できないだろ、とか思うかもしれないけど、何も認識できない状態であるにせよ、事実として無限の時間が過ぎてもなお何も認識できない状態が続くって考えるとヤバくないか?

100万年経ったところで俺らは死んでいる訳で、その100万年後も死んでいるんだ。

どうなっちまうんだろうな。

俺は時々夜中に「うわぁ」って声を上げて飛び起きるんだわ。

無限の時に葬られる恐怖を感じてな。

単に俺がタナトフォビアなのかもしれないけど、実際考えたらヤバいと思わないか。

まあ、輪廻の可能性もワンチャンあんのかもしんないけど、どっちなのかは結局全くわからないよな。

で、どう生きるか。

結論死んだ後どうなるのか全くわからない。

ただ、無限の時間の中で生きている100年に満たない時間って全体から見たら一瞬だよな。

たった一瞬なら、全力で走ってもそんなツラくなくね?

そりゃ、すっげえツラい日とかもあるし、日々生きていく中では1日も1週間も長くて、もうやってらんねーわって思うこともしょっちゅうある。

でも、この後の無限から見たら一瞬じゃね?

でも無限の中で頑張ろうとしても100年も頑張らせてもらえないんだぜ?

死んだ後「文字通り」いくらでもゆっくりできるじゃん。

死んだら何も残んないけど、無限の時間の中のこの一瞬だけでも、せめて輝いていたくないか?

この世の中は努力と成果が必ずしも比例するわけでもないし、非業の死を遂げる者もいれば、スタートでハンデを背負わされているヤツもいる。

だが、その中で、せめて、自分の中で最大限のパフォーマンスを発揮して、自分の生きた人生を振り返って、「頑張ったな」とか「良かったな」とか思える人生を過ごしたくないか?

ムカつくヤツもゴミみたいなヤツもいるけど、せめて自分の大切な人をそういうクソから守って、大切な人と共に、楽しく健やかな日々を共有して、いい思い出作ろうぜ!

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